沢村投手   ( 伊勢市 )

伊勢志摩きらり千選
推薦のことば
沢村栄治氏。平成7年1月16日(月曜日)付け中日新聞の記事あります。(大内山村、83、男)
伝説の火の玉投手
 沢村栄治(1917―44)
三重県宇治山田市(現伊勢市)生まれ。1934年(昭和9)秋、京都商業5年生で全日本チームに選ばれて、来日したアメリカ大リーグ選抜チームと対戦したときベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらの超一流打者に対し好投、1対0で惜敗したが、この善戦の模様は今日まで語り伝えられている。36年、プロ野球の公式戦が始まると巨人軍のエースとして活躍。37年春24勝4敗で、初の最高殊勲選手となる。大きなドロップと速球は、今日まで彼以上の球威を示した者はいないといわれる。兵役に二度とられたため、巨人軍では実働5年間、登板数105試合、62勝22敗、通算防御率1.71。 1944年(昭和19)12月台湾沖で戦死。
1947年(昭和22)彼の名を冠した「沢村賞」を制定、一時セ・リーグの投手のみを対象としていたが、現在はパ・リーグも対象として、該当者のない場合を除き優秀投手に毎シーズン贈ることにしている。その背番号14は巨人軍の永久欠番である。1959年(昭和34)第1回目の野球殿堂(野球体育博物館)入り。--スーパーニッポニカ より

               沢村投手の少年時代
 日本プロ野球史上初の最高殊勲選手で「不滅の大投手」といわれた沢村栄治が投手としての才能を現し始めたのは、明倫高等小学校の野球部時代からだ。
 大正も後半に入ると、各小学校に少年野球が普及し、日中戦争が始まる昭和10年代の半ばまで、宇治山田市でも盛んに対抗試合が行われた。中でも、強豪明倫と厚生の試合は市民の間でも人気を呼んだ。
 沢村は昭和6年、野球部ができて間もない京都商業に、引き抜かれて入学。8年から9年にかけて春夏3度の甲子園出場を果たす。
      --伊勢市編纂「歴史と人と」より

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  沢村栄治の墓 (伊勢市岩渕町一挙坊墓地)
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切手になった沢村投手
郵便局の切手にもなっています。20世紀のデザイン切手第8集は沢村投手を中央に乗せています。
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父の思いで・・・
沢村投手は明倫小学校 私の父は厚生小学校。
2年上の沢村投手の話はよく父から聞きました。
沢村投手がいる間 厚生は勝てなかったと!
京都商業に行ってから 厚生の天下になったそうです。
若くして 戦死されて 惜しいですね〜
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